生年月日データベース

服部武雄はっとりむお

俳優[日本]

(旧芸名・服部翼)

1989年 9月13日 生 (満36歳)

服部 武雄(はっとり たけお、天保3年12月22日〈1833年1月12日〉 - 慶応3年11月18日〈1867年12月13日〉)は、新選組隊士・御陵衛士。
通称は三郎兵衛。
諱は良章。
来歴= 播磨赤穂藩に生まれる。
「殉難録稿」他には奸臣を斬って出奔した旨が記されているが、史料上での確認はされていない。
新選組に加盟し、元治元年10月の編成では尾形俊太郎の五番組に属した。
慶応元年の春、諸士調役兼監察・撃剣師範。
慶応元年11月、近藤勇の長州出張に随行した。
慶応2年9月、三条制札事件では、目付役を勤めた。
慶応3年3月、伊東甲子太郎らと組を離脱し、御陵衛士を結成した。
同年11月18日、油小路事件の際に死亡した。
享年36。
備考= 大柄で剛力、二刀流の達人でもあり、組中一二を争う剣術、柔術、槍術の相当の使い手として名を馳せたとされる。
油小路事件では、暗殺された伊東の遺体の引き取りの際、全員が鎖帷子を着込む武装をすべきと主張したが受け入れられず、ただ一人密かに鎖帷子を着ていた。
鈴木三樹三郎や加納鷲雄、富山弥兵衛、篠原泰之進らが逃走した際、服部は塀を背にして多勢の新選組を相手に最期まで孤軍奮闘している。
御陵衛士の研究家である市居浩一は、「逃走が困難になる鎖帷子を着た服部は、いざという時は同志を逃がすために最後まで敵を引きつけ、討死する覚悟をしていたのであろう」と推測しているが、史料としての確証は無い。
「就中服部氏の死 ……

服部武雄さんが誕生してから、36年と103日が経過しました。(13252日)

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