北条氏盛ほうじょううじもり
河内狭山藩 初代藩主[日本]
(天正5年生、北条氏規長男。北条氏直の死後、北条宗家を継ぐ)
1577年 生
1608年 6月30日 死去享年32歳
北条 氏盛(ほうじょう うじもり)は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名。
河内狭山藩の初代藩主。
通称は助五郎。
官位は従五位下、美濃守。
生涯=
天正5年(1577年) 、北条氏規の子として誕生。
同17年、11月10に氏直のもとで元服し、北条氏直から通字を「氏」を授けられ、氏盛を称した。
従兄にあたる後北条氏5代当主・氏直と督姫(徳川家康の次女)の養子となる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡した後、父と共に高野山に向かったが、やがて秀吉に許され、天正19年(1591年)、養父氏直が病死するとその遺領の一部である下野足利4千石の所領を与えられた。
同年、陸奥の九戸政実の乱では、徳川家康に従って従軍している。
翌天正20年(1592年)、朝鮮出兵で肥前名護屋に在陣した。
慶長5年(1600年)、実父氏規が死去するとその家督を継ぎ、五大老筆頭の徳川家康からも河内狭山にあった父の遺領7千石を安堵された。
こうして氏盛は計1万1千石の大名となり、狭山藩の初代藩主となった。
同年、関ヶ原の戦いでは東軍の西尾吉次隊に属した、本領安堵されたが、足利4千石について都賀郡12ヶ村とされているため、知行替えがあったとみられる。
家康の征夷大将軍就任後は徳川氏に仕えた。
同6年5月11日には、従五位下・美濃守に任官している。
慶長13年(1608年)に死去、享年32。
法名は松林院殿浄誉心徹大禅定門。
墓所は専念寺(大 ……
亡くなってから、417年と39日が経ちました。(152348日)