生年月日データベース

若林繁太わかばやししげた

教育評論家[日本]

1925年 1月24日

2007年 7月27日 死去享年83歳

若林 繁太(わかばやし しげた、1925年〈大正14年〉1月24日 - 2007年〈平成19年〉7月27日)は日本の教育者、教育評論家。
篠ノ井旭高校(現・長野俊英高等学校)の経験をもとに「教育は死なず」を上梓したことで知られる。
その後豊川高校校長を務めた。
来歴= 1925年に中国撫順で生まれる。
旧制撫順中学校卒業。
1953年に明治大学法学部法学科を卒業、1956年に明治大学大学院修士課程修了。
同年、明治大学法学研究所研究員。
当初は作家を志していたが挫折し、両親の世話のために長野に帰郷する。
1960年に長野県篠ノ井市の私立篠ノ井旭高校(現・長野俊英高校)開校とともに社会科教師として赴任し、1974年に校長となった。
当時の篠ノ井旭高校は非行が蔓延し生徒数が1500人から200人に激減する事態に喘いでおり、若林は「一人の落ちこぼれも出さない」を掲げ、全国から不登校児や不良生徒を集めることを実施した。
結果、100人以上の生徒が集まり旭高校の生徒の99%が転校生となったほか、若林は多い時には20人以上の生徒らを自宅に下宿させていたこともあった。
昭和50年代前半に旭高校ではいったんは非行が収まったがその後増加し、校舎の破壊や飲酒、リンチ、更には喧嘩で元からの在校生を巻き込む事態にまで発展する。
そこで若林はゲーム的な小罰則やマラソン大会、漢字書き取り大会を実践し学力の恢復や非行の減少を図り最終的には無くなった。
また不良生徒に限らず養護学 ……

若林繁太さんが誕生してから、100年と143日が経過しました。(36668日)
亡くなってから、17年と325日が経ちました。(6534日)
30134日間 生きました。

推定関連画像